その①の続きです。
浦和宿でランチにいただくのは、鰻。
江戸時代、浦和近郊は、沼地が多く川魚がよく取れたそうです。
此方で捕れる鰻は、当時から味が良いと評判で浦和宿の名物となりました。
今回我等が鰻をいただくお店は、浦和の老舗、萬寿屋さん。
注文したのは、うなぎランチ。
お安くいただけて、しかも美味しい!
ご飯大盛にしてもらいました。
うなぎランチの他、鯰の天婦羅に、瓶ビールもいただきました。
(Kさんごちそうさまです!)
久しぶりの鰻、美味しかったです。
清潔感溢れる店内、とても良い雰囲気でした。
ほろ酔い気分で、てくてく旅再開です。
賑やかな街道に、中山道浦和宿の石柱がありました。
次に目指すは、門前通りにある玉蔵院です。
浦和宿は、調神社と玉蔵院の門前町として栄えていたそうです。
咲き誇る姿を想像してしまう見事な枝振の垂れ桜。
春になったらせひ再訪したいと思わせます。
玉蔵院にお参りし、中山道に戻ると、昔の市場の名残を示すユニークなブロンズ像がありました。
更に進み常磐公園。
此方は、徳川家康が民情視察や鷹狩の際使用した浦和御殿があった場所です。
此処で本陣跡を見逃したことに気付き、引き返す事に。
右往左往した結果、やっと浦和本陣跡の案内板にたどり着きました。
此方でJさんと合流、旅人は5人となりました。
少し歩くと慈恵稲荷神社。
鳥居をくぐると浦和宿二・七市場跡の案内板があります。
浦和の市は、2と7がつく日に開かれ(蕨は1・6「一六橋がありました」)始まりは戦国時代だそうです。
天正十八年と刻まれた御免市場の碑が残ります。
富士山、大山、志木への道標となっています。
立派な庚申塔や祠もありました。
中山道に戻ると成就院(上寺)が鎮座します。
沢山の石像石仏が居られました。
一体一体にお線香を手向けさせていただきます。
お参りをすませ、てくてく再開です。
中山道は、東北本線の線路を浦和橋で渡ります。
この辺りに、六番目の一里塚、浦和一里塚があったようですか、それを示すものは、見つけることができませんでした。
北浦和駅に近づくと浦和レッズのバナーや選手の手形・足形のレリーフが飾られてます。
現在の浦和は、サッカーの街でもあります。
駅を過ぎると廓信寺。
此方のお寺さんは、さつまいもの女王、紅赤発祥の地だそうです。
参道を進むと仁王門。
中には、金剛力士像。
阿形、吽形が力強く立っていました。
門の裏には、安政二年の鬼瓦。
六地蔵も居られました。
中山道に戻り、歩き続けます。
正徳四年の庚申塔が肩身を狭そうに道に挟まれ建っていました。
さらに進むと一本杉の石碑が現れます。
幕末最後の仇討ちで知られる、一本杉の仇討ちがあった場所となります。
切ない仇討ち話を皆で話しながら先に進みます。
中山道は、欅並木となります。
欅のなかに一本、松の木がありました。
当時の中山道は、松並木、それらの生き残りでしょうか。
左側にさいたま新都心の高層ビル群がそびえるなか、中山道は、続きます。
道の途中に祠があります。
火の玉不動尊とお女郎地蔵です。
さいたま新都心の駅を過ぎ、欅並木は、氷川神社の参道へと続きますが、中山道は、そのまま直進、大宮駅方面へと進みます。
途中、立派な門を構えたお家がありました。
しかし、大宮宿は、都市化が進み、街道の昔を偲ばせる物を見つけるのは、なかなか難しいです。
そんななか、お地蔵様が、吉敷町のビルの路地に居られます。
三体子育て地蔵尊。
塩地蔵尊。
レリーフもありました。
その後、大宮駅まで歩き今回のてくてく旅は終了です。
旅の疲れを癒すのは、西口、国道17号沿いにある日進湯さん。
その後は、いつもの如く赤提灯へとながれていきました。