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ガレージ居酒屋ファン倶楽部中山道てくてく旅第6回(北本から吹上)その①

2021年10月16日土曜日、天気は曇り時々雨。
てくてく旅の第6回目です。
地元の駅に10時集合、参加者は、いつもの4人。
前回のゴール地点の北本駅まで、電車で向かいます。
北本駅からてくてく旅スタートです。

中山道は、江戸の初期に現在の位置(線路の東側)に掛けかえられた為、当初の道筋は、現在ある高崎線の線路の西側を通ります。
また、古い中山道の道筋には、当時の一里塚が片方だけ残っているのです。
まずは、一里塚跡を目指し、線路に沿っててくてく歩きます。
すると、一里塚の標識を見つけました。

日本橋から数えて十一番目となる、馬室原の一里塚です。


この旅では、志村の一里塚以来の当時の面影を残した貴重な一里塚跡となります。
一里塚跡を後にして、次の踏切まで線路沿いを歩きます。
すると、道沿いに庚申塔がありました。

塔の側面を見ると、明治三庚午年正月と刻まれています。

明治三年は、版籍奉還の翌年、廃藩置県の1年前です。
激動の明治維新の真っ只中ですね。
踏切を渡り、現在の中山道へ戻ります。
鴻巣市に入ると、鴻巣宿加宿上谷新田の石碑があります。

加宿とは、隣接する宿場町と家並みがつながった地域を指し、鴻巣宿と上谷新田村の家並みが続いていた場所となります。
この辺りは、現在、人形町と呼ばれています。


鴻巣宿までは、もう少し歩きます。
次に見えて来たのは、八幡神社です。


境内には、富士山本宮浅間神社が鎮座します。


明治十六年につくられた、冨士講碑です。
わずか6段で祠にたどり着きます。
また、境内の片隅には、皇紀二千六百年記念植樹と刻まれた石碑がありました。
皇紀とは、所謂、神武紀元で明治から戦中にかけて公式に使用されていた紀元です。

皇紀二千六百年は、西暦1940年、昭和十五年。
神武天皇が即位して二千六百年目ということで日本中が祝賀ムードで満たされたそうです。
特に11月10日から14日の間には、各地で様々な記念式典が行われたようです。
当時の八幡神社もお祝いムードで満たされたのではないでしょうか。
中山道に戻り、歩き始めると雛人形のお店が沢山並びます。
流石人形町です。
広田屋さんの前には、長寿橋。

此方の太鼓橋を渡ると、1年寿命が延びるとか。
この日は、生憎の雨の為、通行禁止。
残念ながら渡ることは、できませんでした。
この先には、鴻巣市産業観光館、ひなの里があります。

此方には、享保雛や古雛等、様々な年代の貴重な、お雛様を観ることができます。


中山道に戻ると、鴻巣宿の観光案内板がありました。

さらに進むと、是より こうのす宿。
と刻まれた石碑が、あります。

鴻巣宿に、入ったようです。
鴻巣宿でまず目指すは、先程、観光案内板にも大きく描かれていた、壇林 勝願寺です。
勝願寺は、徳川家の家紋、三つ葉葵を境内で観ることができます。

徳川家康が、鴻巣に鷹狩りに訪れた際に、このお寺さんに立ち寄り、当時の住職の不残上人に深く感銘を受け、三つ葉葵の家紋の使用を認めたそうです。
また、譜代の家臣には、檀家になるように命じ、当時は、大変繁栄していたお寺さんだそうです。
惣門をくぐると、大きな仁王門が見えます。

仁王様が力強く立ちます。


立派な本堂。

本堂の屋根にも三つ葉葵紋。

境内には、仙石秀久

真田信重夫妻墓所

真田信之正室小松姫墓所

芭蕉忌千句塚が境内に。

芭蕉の70年忌にあたり、鴻巣出身の横田柳几という俳人を中心に一日千句の吟を行ったそうです。
その後の天明七年に、この場所に芭蕉忌千句塚を建立し、千句を納めたようです。
勝願寺を後にして、時間もお昼を過ぎ、お腹も空きました。
この辺りで、お昼ごはんをいただくことにします。
いただくのは、鴻巣名物、川幅うどんです。
その②に続く。